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2011年 04月 20日
「着の身着のままだったっぺ」
隣で生活してるおばあちゃんはそう言った。 畑仕事をしている時に強い揺れが来て、近くで一番大きい木に掴まった。その木もぶるんぶるん揺れて天地がひっくり返りそうだった。しばらくして揺れがおさまったら「津波がくるから逃げろ〜」という近所の人の声を聞いて作業着のまま高台に逃げた。2〜3日したら家に戻れると思って避難所で一夜を明かしたら、第一原発から20キロ圏内で避難指示が出た。バスに乗って集団でいわき市へ移動した。いわき市の避難所では食べ物も防寒具も何もかもが足りなかった。 一週間して、楢葉町役場の本部が会津美里町に移動したのを受けて、再びバスでここへ移動してきて1ヶ月になる。 「着いた日は吹雪だった。えらい遠い所まで来てしまったと思ったっぺー。会津は寒いっぺ。」 同じ福島でも浜通りと会津では気候も風土も全く違うことを私はここに来て知った。 服も下着もカバンも何もかもいわき市にある物資の集まるセンターで手に入れた。 自宅からは何一つ持って来れなかった。だんなさんが亡くなって今は身寄りもない。 「これからどうしようかねぇ...静かに生きていこうと思ってたけど、それもどうやったらいいかわからないっぺ」 「うちの家は流されちゃったらしいよ、ほらこの辺に見えるのが家の垣根の跡。今は逆にさっぱりしてる。残ってるのに帰れないよりわね」 ある人はGoogleアースの上空写真をコピーした紙を見せてくれた。これが自分を納得させる唯一の証拠だ。自分の家がどうなってるか、もう見に行くこともできない。でも「さっぱりした」と言えるまで、この人は何度悔し涙を飲んだんだろう。 楢葉の人たちはこれから二次避難場所へと再び移動していく。二次避難場所は主に会津地方の旅館で、避難者に宿泊してもらえると旅館側に1人一泊5000円支給される。 避難者もあったかいご飯にふかふかの布団、お風呂だって毎日入れるし今の避難所生活よりもかなり改善されるはず。でも一体いつまで居れるのか... 「7月までだって聞いてるから、7月越えて仮設決まらなかったらまた避難所へ逆戻りかもしれない...夏の会津は暑くって冬より厳しいみたいだから、避難所生活は大変だっぺぇ...」 60代の男性はそう言って溜め息をついた。仕事を探したくてもこの先自分が何処に住むのか、住めるのかも見当がつかない。確かなものが何一つないので進むべき道がわからないのだ。ただ指示された通りにまるで流浪の民のように移動を続けている。 避難所滞在中、テレビで『原発事故の被災者に一世帯100万円支給』のニュースを被災者と見ていた。どの人も力ない目で記事を読むアナウンサーを見ていた。 「100万円ったって、ローンも払わなきゃいけないのに。仕事もないのに。ここからどうすればいいんだ...」 でも、政府の言うことや、東電の言うことなど、何を信じていいのかわからない状況下で、原発そのものに対して悪口をいう人はいなかった。 たぶん、福島の人は原発と共存していたのではないかと思う。 好きとか嫌いとかじゃなくて、福島に作られるって決まったんだから仕方ないと思って受け入れてたんだと。もちろん反対している人もいたと思う。 でも、楢葉町の住民の誰の口からも、 『原発が憎い』 という言葉は聞かなかった。楢葉町には第2原発がある。第1原発も20キロ圏内だ。 福島の人たちは、原発が傍にあって当たり前の生活をしていたのかもしれない。 そんな福島で生産された電力を私たちは当たり前のように使っていた。 そして今、福島の人たちは行き場を失っている。
by tamura_ikkyuu
| 2011-04-20 20:12
| 日本
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