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2012年 03月 17日
今までの旅で唯一の無賃乗車は、ベイルートからトリポリへのバス。
![]() 時計塔にはうっすらと記憶がある。 アレッポにハマに...中東の街にはランドマークになる時計塔がけっこうあった。 ベイルートで無駄に緊張していた私は、トリポリ行きの高速バスの中で乗車賃を払うタイミングを逃し続け、レバノンポンドを握りしめたままトリポリで降ろされてしまった。お金は浮いたけど、その土地に馴染めてない自分にへこむ。 今度こそ自分で宿を見つけないと! メモ帳に書き写したトリポリの宿情報と地図を時計塔に重ね合わせる。でもいつもそうだけど、進むべき方向が全くわからない... するとレバノンメンが近づいてきてメモを覗き込んできた。 「ここか、知ってる知ってる、付いてこいや!」 みたいなことを言いながら得意げに顎をしゃくり、先に立って歩き出した。また強面のオヤジみたいなとこだったらどうしようと不安になったけど、こういうときは考えるのが面倒くさくて、大抵付いていってしまう。 辿り着いた宿は、路地裏のこじんまりしたペンションみたいなとこだった。部屋も清潔でオーナー夫婦は親切だった。ベイルートの安宿は都会の場末感たっぷりの、とりあえず寝られればいいみたいなとこだったので、ほっとする。 旧市街を歩くと子供たちの笑い声が絶えなくて、人々は気さくで、シリアみたいだった。 ![]() ![]() 撮影してた私もきっと笑ってたんだろうって思えるくらい、どの子供たちも無邪気に笑っている。 この写真↓からもリラックスしている様子が伺える。 ![]() photo by 撮影者不明 だってハンマーム(アラブ式銭湯)の男湯に普通に入っているから...! 今じゃ絶対出来ないし、したいとも思わない。背中でも洗ってあげたんだろうかと思うくらいの接近ショット。 夜も賑やかだけど、騒がしい感じとは違う安定感があった。 夜間の停電時、人々はバルコニーへ出てろうそくを灯し、シャーイを飲んで談笑していた。私もバルコニーに出て日記を書いたのを覚えている。 私の記憶するトリポリは、そんな街。 今でも爆弾テロが頻発しているとニュースには出てきても、そこには人々が住んでいて、普通に生活している。ニュースを眺めながらいつも想う。その先にいる人たちのことを。 ![]() 写真に目を凝らすと、壁に無数の銃弾の跡。この街も悲しみをたたえた街だ。 2012年 03月 15日
ハマからホムスを抜けてレバノンの首都、ベイルートへ。
ベイルートの記憶はあまりない。 当時のベイルートは、街全体がギスギスしていて物価も高いし(物価は今もだけど)、何だか落ち着かなかった。 ![]() 到着したバスターミナルの近くに安宿はあるはずだった。 どっかの情報ノートから写したアラビア語で書かれたホテルの名前を、近くにいたちびっ子に見せる。するとちびっ子が剥き出しのコンクリートの階段を上って案内所?(今思えばそんなのあるわけない)に連れてってくれた。 簡素な部屋には自動小銃が机に投げてあり、まわりに数珠つなぎの銃弾が散らばっていた。でんと腰をかけているムキっとしたオヤジにちびっ子がメモ帳を渡す。 このオヤジポリスメンなの?それとも兵士? オヤジは薄い肌着のようなシャツに迷彩柄のカーゴパンツで暑そうにしていた。 でも、私は背筋が凍りそうだった。装着されてない銃の方が怖いとその時思った。 ひげ面で強面のオヤジを見上げながら、早く逃げたかった。 その後、どうやって宿にたどり着いたかは思い出せない。 余計なことにならないように、ベイルートはあまり出歩かず、翌日すぐに街を出た。「またあのオヤジみたいな人にお世話になるのはご免だわ」と思って... なのでそれくらいしか記憶がない。 でも、あの時は旅の仕方を間違えたんだと思う。 ベイルートは素敵な街だと思っている。地中海に面した建物や道行く人々は、他の中東諸国より幾分も洗練されてる所とか、悲しい歴史が繰り返されてるのにそれをあまり表面に出さず、うじうじせずにすぐ立て直す所とか。 上の写真はまさに私の思うベイルート。 壊されても壊されても(写真右)、粘り強く再建して(写真左)何事もなかったかのように華やかに暮らしている人たち。 この写真は2000年のものだからレバノン内戦終了から約10年後のベイルートの街。それからかつて『中東のパリ』と呼ばれた美しい街へ、急ピッチで再建が進められていた。 でもその後、2006年にもイスラエルによるベイルート空爆があって、再び高層ビルは崩れ落ち、たくさんの人が殺され、美しい街並は瓦礫と化す。 私はベイルート空爆のニュースを日本で知り、 「なんでまたレバノンなの...!」 とイスラエルに怒り狂ったのを覚えている。 そして2010年、再びベイルートへ。 再再建は進んでいるのだろうか... ![]() ベイルートは空爆なんて無かったかのように、また美しさを取り戻していた。 どこから沸いてくるのか、その底力に金ぢから...ただただ脱帽。 もちろん貧富の差はあるし再建が進んでるのは都市部ばかりだ。 でも、アフガンやイラクみたいにいつまでも治安の安定しないような状況が続くことはなく、落ち着いたらまたビジネスに、観光にと外国人が集まって来るのだ。 ある意味、割り切った街だと思う。 2012年 02月 29日
パルミラからハマへ。
ハマの町が今どうなってるのかは、不明。 でも、日本でもしょっちゅうニュースに出るようになった戦闘の最も激しい町ホムスから、バスで30分程度の町なので、ある程度は想像できる。 ![]() photo by 撮影者不明(2000/8) 中心に大きな水車のある公園(思い出しただけで泣けてくるあの有名な水車のある公園...!)を1人で散歩してたら、芝生でランチ中の大家族が声を掛けてくれた。 子供たちに手を引かれて輪の中に入り、お母さん手作りのファラフェルサンドをご馳走になる。 包み紙の先を食べやすくちぎって差し出してくれるお母さん。横では長女らしき子がシャーイを小さなグラスに注いでくれている。 遠慮なくアラビア語で質問しては勝手に笑って寄せてくる肩... 話しながらヒジャーブを巻き直す指先... 水筒のシャーイは、大抵ぬるくなってるけど甘くておいしい。 いつものシリアの、いつも流れてた時間。 どこの町に行っても、みんな当然のように親切に迎えてくれた。 ![]() ↑これは1年半前に行った時。細い石畳と小さな石造りの建物が並ぶハマの旧市街。 10年経って、町は少し華やかになったけど人は変わってなかった。 ↓こんな写真も当時は冗談たっぷりで撮ってたけど。 ![]() 平和過ぎた頃のシリア。 誰も、この子達だって、こんな日が来ると思っていなかった。 2011年 07月 17日
また微妙カットの写真出てきた。
![]() photo by シリア人の子供 (from the left)daisuke-san, watashi,syrian kids 撮り慣れてない人が撮った枠を無視した一枚。 でも、私にセンターキープさせてくれてる。 持っているのはシャーイ。誰かの家に招かれて休憩してたんだろう。 ダイスケさんはルートと移動時期が同じで、アレッポ〜パルミラ〜ダマスカス間を一緒に移動した。今は連絡とってないけれど、人当たりのいいさわやかな青年だったから、今頃まっとうに働いて素敵なパパになってると思う。 パルミラで思い出すのはビールを探しまわったこと、この後にやって来たキムという韓国人に振り回されたこと。 キムはビールを飲まないとその日の一日を終わらせないという人だった。今ならわかるけど、当時のパルミラでビールを探すのは無理があった。日が落ちたら遺跡以外にお店もほとんどなかったパルミラで、私たちは干からびそうになりながら酒屋を探し廻った。 みんなビールと訊くと顔をしかめて答えてくれない。 1時間さまよって、ようやく摑まえたちびっ子にビールを売ってる場所へ連れて行ってもらうと、自動小銃を小脇に抱えたマッチョなシリアメンが番をしている怪しい建物の前へ来た。私はビビって外で待ってると言ったが、みんなで入るぞとキムに背中を押されて中に入った。 中に入ると更なるマッチョメンが酒瓶に囲まれて立っていた。「持ち出しは厳禁だ、ここで飲め」と言われる。キムは「そんなことできない、絶対もって帰る」と言い張るが、マッチョメンはそれなら絶対売らないと言って太い首を横に振る。 キムはペットボトルの中身を空けて、その中にビールを入れだした。 えぇーー!そこまでして... 私たちにもキムに指示され仕方なくペットボトルにビールを注いだ。そして、それを持ち帰り食堂に入って炭酸のふりをして乾杯した。 「あー、やっぱビールじゃないと!」 キムは背中を反らせ、上機嫌で煙草に火をつける。 ぬるくて、炭酸も抜けかけたそれはビールとラベルを貼っていても信じ難い飲み物になっていた。 ここまでしてビールが飲みたいのかこの人は。これなら冷たいコーラが飲みたいよ、私は。 まぁ、キムにつき合うのはこれきりだと思ってたけど、翌日ダマスカスへ移動する私たちに、キムは同行することになった。 キムは日本に留学経験があり日本語が堪能で、インド留学もしてたからヒンドゥー語もできて、その時はドイツで講師をしていて夏休みだから旅に出てきたという不思議なおじさん(当時キムは38歳前後で私は20歳)だった。 その後もキムとはヨルダンやエジプトで度々再会したんだけど、そこで一緒だった日本人はキムのことを『キム先生』と呼んで慕っていた。でも私は『キム』と呼び捨てにしていた。キムはビールを飲むと儒教の話を始めて、いつも私に「ヨシコは女性らしい低姿勢が足りない」と説教するから、いつも会えば口喧嘩になっていた。 ![]() 私が旅で一番再会したくない人だったのに、キムとはこれでもかというくらい道中で再会した。 外国人が数人しかいないオアシスの町で、日本人はもちろん私だけという時にキムがロバの荷車に乗って通りかかったり、ヨルダンからエジプトへの入国でアラブ人のおっちゃんに一緒に旅行するからと、勝手に荷物を奪われて、どうやって取り戻そうかデッキに上がって悩んでいる時に、キムが現れて取り返すのを手伝ってくれたり... そして、私が日本に帰国する前日にも、ピラミッドの前でキムとばったり会った。 ドイツから遊びにきた生徒を数人連れていて、丁寧に私を紹介する姿に、キムを初めて先生らしいと思った。それがキムと会った最後だった。日本で師事してた大学の恩師が逝去してから日本には一度も行ってないし、これからも行くことはないと言っていた。 ![]() 今、キムは何処で何をしているんだろう... 今、キムに出会ったらビール隊に入部させたいのに。 2011年 04月 12日
シリアの花嫁。
![]() photo by 撮影者不明 一体何番目の妻だったのかしら...私。たしか娶られたのはアレッポのスーク。 アンタルヤからトルコ側の国境アンタクヤまで南下したら、アレッポまではすぐだった。 着いて早々ホテルの近くでお尻触られたっけ。トルコ料理で舌が肥え過ぎてたので最初の頃は食堂でシリア料理が食べれず、クッキーばかりかじってた。変なおじさんにタクシーで連れ回されて逃げようとしたら、腕つかまれて「ゴー、ゴーホテル!」って懇願されたりもしたな。 2000年のアレッポで思い出すのはそんなことばかり。そう言えばアレッポ石けんのこともよく知らなくて、荷物になるからと買わなかった。 でもね、しょっぱなからいろんな洗礼受けたけどね、私シリアに戻ってきたよ、みんな...! ![]() この子もおっちゃんになったかな... 2011年 04月 07日
バックパッカーな写真出てきた。
![]() photo by sho-chang トルコの東の果てドゥバヤズィットから南西の地中海に面したアンタルヤへ。また血迷った大移動でバスできっかり24時間、着いたら足がむくむくだった。アンタルヤでイスタン振りにトラムが走っているのを見た。アンタルヤは何処からでも地中海が近くて、都会だけどのんびりした所だったと思う。 ベージュのチュニックはこの旅で重宝した。ガーゼ素材で洗ってもすぐ乾くし、かさばらない。風通しもよくて、程よく日差しから肌を守ってくれた。中東を旅するには便利なアイテムだと思う。 写真は泊まってたゲストハウスの中庭。アンタクヤは旅行者の多い町で、ここは日本人宿だった。 テーブルの上に盛られたフルーツとパンから察して朝食中で、その日の予定でも話し合ってたのだろうか。薄れんが色の壁のといい、吊り下がったぶどうの蔓といい、今の生活と何ともかけ離れた場所だ。 この町で1週間くらい過ごした。毎日他の旅行者たちと遊んだり、旅の情報交換したりして、久しぶりに1人でなく、いつも誰かと過ごしていた。 でもここに写ってる人たちの名前が1人も思い出せない。一緒にハンマーム(アラブ風サウナ)に行ったり、絨毯屋に通ってキリムを織ったりしたのに。小型のクルーザーに乗って地中海沖でシュノーケリングして、ウニを穫ってそれをswissナイフで割ってみんなで食べたことや、その日の帰りに見た地中海に落ちる夕日が美しかったことは思い出せるのに、一緒にいた人たちの名前が出てこない。数人とは連絡先を交換したはずだけど、それきり。11年も前だから、すれ違っても気付かないだろう。 限られた楽しい時間を共有して、またそれぞれの方向へ向かって旅を進める。そんな旅人とたくさん出会っては別れてを繰り返した。 確かなことは、この町で大学のクラスメイトのしょうちゃんと待ち合わせしていた。しょうちゃんが写ってないので、きっと撮影者はしょうちゃん(だろう)。 2011年 02月 24日
イランとの国境にある、トルコ側の小さな町ドゥバヤズィット。
![]() photo by a kurdish man イランに入る予定の無い私がどうしてこの町に来てしまったのか、今思い出してもわからない。 たぶん、血迷ったんだと思う。 トルコは広すぎて、見所も多過ぎた。 イスタンブール→セルチュク(エフェス遺跡)→カッパドキアまで来てその後、どうやって旅すればいいかわからなくなった。トルコはバス網が発達していて、町のバス停に行けば何処へでも連れてってくれる手軽さが、余計に私を迷わせた。 そして結局、当時はまだマイナーだったDr.フィッシュが生息する村を目指した。地元のトルコ人に訊いてもみんなに知らないと言われ、魚が人の肌をつついている絵を描いて知ってる人を探し、ようやくその村に辿り着く。そこは外国人は私だけの療養施設で、どの人も皮膚疾患を患っていた。「貴女は何処が悪いの?」とすれ違う度に哀れんだ目で訊かれ、健康体で魚につつかれるのが申し訳なくなり、一泊して村を出た。 そして更に東へ進んでしまい、ドゥバヤズィットに着いた。 ここで覚えているのはイサクパシャ宮殿の受付のクルド人のオヤジ(写真の撮影者)がセクハラだったことだけだ。いやいや写真に写る私。宮殿見学中にしつこく付きまとってきて、この仕事が終わったら一緒に自分の村まで行くんだからと半ば強制的につかまってしまう。この頃はこういう時の対処法を知らなかった。 受付の電話が鳴ってオヤジが目を離した隙を狙って宮殿を逃げ出し、来た道を走った。途中で雨が降り出してきて、町まで2時間の道のりをどうやって帰ろうか途方に暮れていた時に、後ろから抜いてきたタクシーが止まって日本人の女の人が出て来た。 「良かったら一緒に乗りませんか?」 トルコを3ヶ月旅してる人で、夕食は今まで食べなかったトルコ料理を教えてもらった。 トルコの旅に疲れ始めていた私に、トルコのいいとこ悪いとこ、イスラム圏を女性一人で旅するときの注意点、でも、一度はまったら止められないトルコの魅力などを話してくれた。 ホテルまで送ってもらってそれきりだったから名前ももう思い出せないけれど、あの人には本当に感謝している。 イサクパシャ宮殿に向かうまでの道で出会ったクルド人家族。 ![]() 確か、スイカを分けてもらった。この子も大っきくなったんだろう。 <後日の追記> こんな写真が出て来た。 ![]() やっぱりスイカごちそうになってたのね。 2011年 02月 06日
時は遡って2000年夏。
![]() photo by 撮影者不明 (from the left) takkun,名前不明のトルコ人,ikumi,watashi 海風が右から吹いているのがわかる、夕日に染まるボスポラス海峡。 この頃は一眼レフをいつもお腹に抱えて旅してた(今はお尻のポケットに入るデジカメね)。 大学2回生の夏、初めて訪れたイスラム圏。 モスクやヒジャーブやトルコメン、ケバブに絨毯にシーシャ。 見るもの触れるもの全てが新鮮だった。 Tシャツからはみ出た腕や腰回りをじろじろ眺めて来る人、それを横目で見ながら颯爽と歩くヒジャーブの女性。アザーンが聞こえたと思えば、欧風の建物の間をトラムが走り、坂の多い街の上からは海が見渡せる。 この時の旅は、『ベールに包まれた神秘のイスラム圏へ』という表面的なキャッチフレーズを抱えてスタートしたんだけど、自分の中に今まで在った感覚に新たなモノが侵入してきてかき回されたような始まりだった。アジアの旅で感じてきた懐かしい感覚とは違う何か。 これはアジアサイドへ船で渡って撮った写真だと思う。 頭上の真ん中に佇んでいるのがガラタ塔かな。 眉毛のつながりそうなトルコメン(思ったよりいい人だった)が私たち3人を案内してくれた。 私とたっくん(大学のクラスメイト)はイスタンへ到着したばかりで、イクミ(バイトの友達)はイタリアからギリシャを通ってトルコへ抜けてきた所だった。昔から多くの旅人を迎えてきたイスタン。ここからアジアへ、ヨーロッパへ、そして中東へ...イスタンは大陸と大陸をつないでいるんだと改めて感じる。 着いた日は行く先々でシャーイを出され、初めてシーシャを吸った。 長旅の疲れで私とたっくんは船の中で食べた鯖サンドの記憶がない。 翌日、イスタンで旅を終えたイクミは日本へ帰って行った。たっくんも一足先にカッパドキアへ向けて南下して行った。 私はその後も何日かイスタンで過ごし、夜行バスでセルチュクへ向かった。 去年訪れた時は雨+雪+極寒のイスタンだったから、今でもイスタンを思い出すときは10年前の夏の感覚が生きている。 2011年 01月 20日
私の髪の毛、すごいタテ巻き...
![]() photo by ryuzo torii この写真の3日後とは思えないゆるい写真が出てきた。3月のカトマンズはあったかいんだねー。 泊まってた安宿の前だと思う。小花模様の赤いシャツはカトマンズでオーダーメイドしたもの。 2002年春、私は看護学生になる予定で、玉なおは看護学生を終えたばかりだった。同じ歳ということもあって、日本に帰ってからもトーキョーや京都でよく遊んだし、よく相談にも乗ってもらった。 そして時は経って、私も無事に看護師になりトーキョーで働き始めると、玉ナオ(写真左)は職場を辞めて旅に出た。ジャカルタ地震で現地に飛んで救援活動をするというメールをもらった時、私はちょうど夜勤中で、 「友達はジャカルタで救援活動してるのに、私はこんな所で...私も自由に飛び回りたいのに...!」 と隣りで夜食を食べていた主任さんに愚痴った。すると主任さんが、 「タムラさんはまず、ここで技術を学ばなきゃ。まだ使い物にならないわよ、行っても」 と言ってくれたのを今でも覚えている。 そして、時は経って2008年冬、私たちはカトマンズで再会した。 ![]() photo by 撮影者不明 私は眼科手術チームのボランティアでカトマンズを訪れ、玉なおはカトマンズにあるチベット系の病院で働いていた。この時、いつも玉なおの背中を追ってたけどちょっとだけ横に並べたと思えた。 「こうやってカトマンズでまた会うなんてね」 ボダナート近くの茶店で、2人でバター茶を飲んだ。 ![]() お互い30代に入っても行き当たりばったりな私たちだけど、これからもこうやって時々確かめ合いながら、ゆっくり進んでいけたらいいなと思う。 2010年 12月 10日
澄み渡るナムツォ湖にて。
![]() photo by ryuzo torii ![]() photo by potu(tibetan driver) (from the left)torii,watashi,harigane,yamamoto トリーさんとハリガネは成都から一緒だった。山本は上海で会ってからラサで再会、その後4人+チベタンドライバーのポトゥで年代物のラウンドクルーザーに乗り、4泊5日でカトマンズへ向かった。 トリーさんはこの頃から数式を解いていて、私は大学を出てたばかり、ハリガネはこのあと渡米、山本は大学生でチンパンジーと暮らす前だった。 いつの間にか便りの途絶える旅友達にしては珍しく、このメンバーは今も繋がっている。 立ち寄る宿はどこも寒かった。小さい照明の下で毎晩、『大富豪』をして暖をとった。 ドライバーのポトゥはいつもRedbullを飲んでいた。Redbullは当時日本にはまだ入って来てなかったので、直訳の『紅牛』というのが怖くてポトゥにいくら勧められても飲む気になれなかった。 時が経って日本にもRedbullが上陸し、都内を走るRedbullCarを見るたびに、ポトゥのことを思い出す。彼はあの法律ギリギリの仕事を今も続けてるんだろうか。 街で公安を見かけると素早く私たちから離れ、安全とわかるとひょこっと戻ってきた。 「翌朝ポトゥが消えてたらどうする...?」とよく4人で言い合った。 でも、ツルツルだったランクルのタイヤはよく走ってくれたし、一寸横は崖っぷちという道無き道をポトゥはネパールまで無事に届けてくれた。 1歳の娘の写真をダッシュボードに飾って、Redbullを飲みながら。 ![]() < 前のページ次のページ >
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